ウミガエルの半生記

人生半分、なんだか色々あるよね。という日記。

父ひとり子ひとり。戦うものは病気だけではなかった~脱・親不孝の呪縛~

はじめまして。ウミガエルです。

好き勝手生きてきた(つもり)らなんと。はや半世紀となってしまいました。

何かに抜きんでた才能があるわけでなく、大きな業績を残したわけでなく。

映画が好きだとか音楽が好きだとか。音楽をやってみたり音楽で踊ってみたりとか。

仕事でも特に最近は色々変化がありつつ。

それなりに泣いて笑って、それなりに山あり谷ありで過ごしてきました。

 

なので特にみなさんに伝えたい事があるんだ!とか、この知識を役立てたい!とか

別にあるわけではないのだけれど。

ここ最近起きたある出来事がきっかけで、自分の頭の整理を兼ねて書き留めたい、どこかに放流したい!という思いに駆り立てられ、ブログをやってみよう!となったわけです。

 

そんなわけなので、無計画に思うままの日記みたいなものになると思いますので、何かの間違いでこちらにいらして「なんじゃこりゃ」となったらごめんなさい。

そして続くかどうかすらも怪しいもんですが、まあやってみましょ。

何事もやってみないとわかりません。

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総合病院イメージ

きっかけはステージ4の小細胞がん

 あ、いやいやちょっとまって!

私がそう診断されたというわけではないのです。私の父の話です。

半世紀生きた私の父親ともなるとかなりの歳だとお察しでしょうが…

そうです80歳です。

母親を幼少期に亡くしてまして、一人っ子ですので「父ひとり子ひとり」です。

実はそのたった一人の家族である父とは、事情があり長らく疎遠となっていました。

別々に暮らしてもう30年以上もたちます。

 

一人暮らしの父とはたまに電話するくらいで、顔を見るのは親戚の冠婚葬祭の時くらい。しかも父は大阪、私は仕事で昨年より東京、という物理的距離も重り、仕事に追われていたのもあって電話もすることが無くなっていました。

そんなある日、父の義姉から電話がありました。

 

声が出ない、という症状

「お父さん、声がずっと出てないんやって」

叔母さんから電話があるのも大変珍しく、普通じゃないことはわかりました。

どうやらかなり前から声が出ていないようで、心配だから私からも病院に行くように言ってくれという内容でした。

電話をするとやはり声が全く出ていなく、電話口では何を言っているかほとんどわからない状況で、そのせいかとてもしんどそうな感じでした。

話がなかなか通じない中、それでも何とか病院に行くように説得。その結果を待つこととなりました。

 

そして病院に行くと言っていた日の次の日。

父に電話をしてもやはり聞き取れない状況なので、何か知ってるかと叔母さんに電話。それでもわからなかったので結局直接病院に電話をしました。

内心、本当は行ってないんじゃないのだろうか…と心配をしながらの電話でした。

 

声が出ないということで、普段通院している病院の耳鼻咽喉科に行ったそうなのですが、そこからの紹介で総合病院に行ったということで、そこの呼吸器内科に電話をしたところ、担当の医師から折り返しの連絡になるということで待ちました。

 

先生の言葉に衝撃を受ける

 

細胞検査をしないと詳細はわかりませんが、と前置きの後

・恐らくかなり進行したがんであること

・進行しているため手術も無理であること

・放射線治療もできない

・選択肢は抗がん剤での治療しかない

ということを伝えてくれた担当の医師から出た言葉です。

 

 「お父さんね、声が出ないだけやから誰にも迷惑かけへんと思って長いこと放っておったんやで」

 

東京に住む私、一人暮らしの高齢の父。父の異変に気付かない状況。

医師にそのつもりはなかったとしても、責められているという感覚に衝撃を受けました。

 

医師はまた、一泊の検査入院をしてからその結果を持って今後の治療方針を決めるが、お父さんが治療を拒否しているのであなたから説得してください。と話しました。

 

5日後の検査入院に向けて、私は大阪に戻りました。

父が治療を拒否する理由は想像できます。

恐らく金銭的な問題なのかなと。この経緯はまた次回にでも書こうと思います。

 

その5日間、私が父と疎遠になってからずっとずっと、長年心の中で抱いていたモヤモヤ。「後ろめたさ」という感情が一番近いでしょうか。

そのモヤモヤの感覚がどれほどのものかと例えると、

道を歩いていて、父と同年代のお爺さんが歩いているのを見るだけで

胸が詰まり涙が出そうになるくらい。

と言うと少しはわかってもらえるでしょうか。

触れば破裂しそうなこの爆弾。ずっと触れないようにしまっていた物が、一気に目の前に現れて一種のパニック状態のようになっていました。

 

まあでも、目の前に現れたからには対処するしかないですよね。覚悟を決めたその日からドタバタと、もうすぐ1ヶ月が経とうとする今ですが。

 

ひとつだけ良かったこと

 

「思えば、こんなことがなければ父と向き合うこともなかったかもしれない。」

 

これは身勝手な考えだと思いますが。

疎遠のまま、父との別れを迎えたとしたら一生モヤモヤを更に大きく抱いて生きていくことになったでしょう。

そのモヤモヤが小さくなり心が少し軽くなったのと同時に、長年の確執が減ったというか、もう忘れかけていた父との繋がりを感じるようになって良かったと思います。

もちろん、父の病状は到底良かったなんて言えないのですが。

 

検査入院の前日夜、大阪へ戻った私は次の日に父を迎えに行きました。

父と会うのは昨年の年末、いとこのお葬式の日以来でした。半年以上あいてます。

年末も年末、12月31日のことでした。

 

そうそう、思えばあの時から何かこの、予兆というのかな。

今年は何かが起きる、変な胸騒ぎのような感覚を覚えていたのを今書きながら思い出しました。

仕事の都合で東京に住むようになって間もない時で、仕事を続ける自信がなくなり、とはいえそういうことを言い出せない状況でしたので酷く落ち込んだ時がありました。

正直今もずっと同じ悩みはつきまとっていますけどね。私自身、もういい歳ですしね!

 

話を戻すと、父の姿は医師の話から想像していたよりは元気そうに見えて、少し安心しましたが、その反面一気に歳をとったようにも見えました。

身長も(もともと低いのですが)縮んで、病気のせいかとても痩せて。

とにかく小さく小さく見えました。

そんな父に義務感とかではなく自然に心から優しい気分になれたことも、こんな言い方は変かもしれませんが、自分にとっては意外で少し心地よい感覚でした。

 

片付けの基本ルールは、通用しない場合がある

 

父を検査入院のため病院へ送り届けたその後のことです。

初めて本当の父の暮らしぶりを見ました。

そのボロ家の状況と部屋の汚さに迎えに行った時にもショックだったのですが

「入院の間に片付けと掃除をしておこう!さあ忙しいぞ!」

と、前述にあるような覚悟と気合いで少しハイテンションになりつつ、家の奥まで入った時に愕然としました。

 

 さあみなさん。何があったと思いますか?

 

いやね、かくいう私も昔から整理整頓が得意ではないのだけれど。

そこにあったのは、そう。

「ザ・ゴミ屋敷」です。

ほら、よくテレビで取り上げられてたりしますよね?あれですよ。

さすがにゴミが胸元まで山になっているとかまではいってないのですが、その分家屋自体のボロさが充分カバーして凄惨な状況になっています。

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ゴミ屋敷イメージ


1時間くらい(に感じた)そのまま玄関で立ち固まった後、勇気を振り絞って考えました。片付けのルール・・・あ、そうだ。

まずは入口から!玄関を片付けてスペースを空けるんだ!と早速とりかかりました。

玄関には洗濯機、下駄箱、洗面台と汚い大物が並び、その周りを取り囲むこれまた汚い洗剤・洗剤・洗剤、くつ・くつ・くつ、消臭スプレー群、虫よけスプレー群。

どれも空だったり中身が無かったり、ちょっとだけ残ってたり、といったボトルやスプレー、小分けの袋など。

一体どうやったらこんな状況になるの?という散らかり具合でした。

 

そうこうしているうちに変な匂い、おそらく消臭スプレーなどの積み重ねなんでしょうね。悪臭を隠すために上からまるで油絵のごとく塗り重ねられた匂いの塊。

それに虫!!!!

気分が悪くなり、あっさりと断念しました。

 

無理です。もう無理。暑さも相まって気が遠くなりそうになりながら思いました。

これ、この匂い。奥の部屋からは出てはいけない物が出てくるのではないかと。

同じ匂いでも事件の匂いまでしてきたので、一旦退散しましたよ。

 

まあ、結果的に出てきませんでしたけどね。

あ、良かったことがもうひとつありましたね!

なんて言ってる場合ではありませんね。

 

退院までのカウントダウンとゴミ屋敷との戦い

 

ここでひとつ賢くなりました。

「片付けの基本ルールは、ゴミ屋敷に通用しない」です。

凡人には無理です。メンタルから鍛えないといけません。

後から思いました。だからあんなに清掃業者って全国にたくさんあるんですね。

 

さて。父の検査入院は一泊二日、一旦明日には退院してくるわけです。

そして検査結果が出るのは8日後。

8日後に入院となったとしてもその日までの住まいが必要です。

ゴミ屋敷はそれまで父が住んでいたとはいえ、あんなところ人間の住めるところではない!ましてや病気で弱っている人が住むところではない!と私の本能が叫んでいます。

 

市内の自宅に退散して少し落ち着いた私は、仕事でも見せないほどのサーチ力と行動力で、まさに「脱!!親不孝」とプラカードを掲げてそうな気合に包まれ動き出しました。

 

あ、私の部屋に泊まればいいじゃん、と思いますよね。

ごめんなさい。それは選択肢には入りません。薄情だと思われるかもしれませんが無理なのです。言い訳ですが決してふさわしい環境ではないことと、やはりそこまで確執が減ったというわけではないのでしょうか?

どちらにしても、私も仕事でずっと見てられるわけではないのでそれはそれで心配というのもありました。

 

できれば病院から近くで、誰かの目が行き届くところにいてほしい。

 

とはいえ、父本人の意思も聞かないといけないと思いましたので、

①ゴミ屋敷清掃は業者(そんなに即対応してくれるかわからないけど)に依頼

②比較的近くにいる親戚に頼る(ただし、高齢で足の悪い一人暮らし)

 ※口は恐ろしく達者

③8日間の間に、父の新しい住処(高齢施設や高齢住宅等を検討)を探す

④できる限り様子は見に行くようにするが、仕事で外せない日もある

この4点を条件にパターンを考え、退院後の病院レストランで父とミーティングをして決めようと思いました。

 

<パターン1>

・退院後、一旦親戚の家で休ませてもらう。

・その間に業者によるゴミ屋敷の清掃、最低限寝泊りできる環境にする

 (その場合は寝具などは買いそろえる必要あり)

 ※なんせ、恐ろしく汚いんですよ…

・そこで8日間過ごす

 

<パターン2>

・退院後、親戚の家で8日間過ごす

 (その場合、2階となり階段の上り下りが心配)

・ゴミ屋敷は全て清掃。引き払う段取りを行う

 

<パターン3>

・退院後、一旦親戚の家で休ませてもらう。

・その夜からは病院近くのホテルで宿泊、8日間ホテルで過ごす

・ゴミ屋敷は全て清掃。引き払う段取りを行う

 

父がどれを選択しても実行できるように根回しをするために、その日はひたすら 

「ゴミ屋敷 清掃」という検索と業者へ電話、

「高齢者 施設」という検索と電話。親戚に電話。

 

社会福祉協会に電話(なぜ?というのはまた次回に)

がん相談センターにも電話(ちょっとよくわからなくなってきてる?)

ということを続けました。

 

そして退院を迎えた朝の病院レストランでのミーティング。

父の選択は<パターン3>のホテルで8日間過ごす。というものでした。

幸い、その場で検索、病院の近くのホテルに8日間連続で予約ができました。

ちなみに、レストランで横並びに座って筆談を交えてミーティングしている時って、なんだか親子って気がしてちょっとだけ心温まる想いも味わいました。

この歳で言うのも恥ずかしいのですが、親子ごっこみたいな感じ。

 

それでうまく収まったわけでは、実はないんですけどね。

 

あら、気付けばはじめての記事でたくさん書きすぎてしまったかな。

書いてるうちにこの時のこと思い出して疲れてしまいました。

 

読んでくれる方(もしいらしたら)も疲れるかと思いまして、一旦今回はここまでにしときましょか。 

ありがとうございました。

 

次回は『ゴミ屋敷との戦い』にもう少しクローズアップしてお届けします!

いらないかもしれない!そんなの。

でも、もし誰かが呼んでくれたり、共感してくれたりなんかしたら嬉しいな。

 

とりあえず、今後ともよろしくお願いいたします。